岸和田地車雑考岸和田地車雑考①
平成14年に岸和田祭三百年祭と銘打ち盛大に行われたのはまだ記憶に新しいところではないかと思います。またこの年は別所町が40年ぶりにだんじり祭に返り咲いた年でもありました。平成14年(2002)の300年前とは果たして・・・。1702年。和暦でいうと元禄15年になります。この頃に岸和田祭が始まったと云われています。
さて・・・岸和田祭が始まったルーツについてはいろんな諸説があります。
当時(現在もありますが)岸和田には岸和田城というお城があり、殿様の前で町衆が俄かを披露したその内容が現在の岸和田祭の始まりではないか・・・。こんな諸説もありますね。
では、その時の殿様とはいったい誰なのか・・・。
その名は「岡部長泰」(慶安3年4月8日- 享保9年7月18日)和泉岸和田藩の第3代藩主。岸和田藩岡部家4代目。このお方が藩主の時代に岸和田祭は始まったと云われています。まぁいろんな諸説はありますが、一番一般的なことを今回は書きたいと思います。
元禄16年(1703)当時の岸和田藩主であった岡部長泰が、城内に三の丸神社を建立、そして京都伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願して行った「稲荷祭」が始まりとされています。又、それ以前から行われていた牛頭天王社(現在の岸城神社)の祭礼から発展したとする説もあります。長泰公は岸和田藩第2代藩主・岡部行隆の長男。子に岡部長敬(次男)、岡部長徳(三男)、柳生宗盈(五男)、岡部長紹(六男)。官位は従四位下、備後守、美濃守。
ここで簡単な生い立ちを。慶安3年(1650)4月8日、江戸にて生まれる。初名は宣就。貞享3年(1686)8月25日に父行隆の隠居により後を継いだ。藩財政は豊かで、祖父や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めています。また、文武を奨励し、特に儒学を好んで林大学(現在の東京都)に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じていました。また、和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物だったとのことです。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されていました。また宝永元年(1704)に、姫路藩主本多忠国の死去に伴い、大和川付け替え工事の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められていた。
享保6年(1721)9月22日、家督を次男の長敬に譲って隠居し、享保9年(1724)7月18日に岸和田にて死去。享年75。お墓は大阪府岸和田市の泉光寺にあります。
その後、岸和田祭はいろんな苦難を乗り越えながら現在にまで受け継がれて来てるんですね。では今回はこのへんで。次回は岸和田城の歴史について書きたいと思います。
参考:ウィキベディア、岸和田のだんじり(岸和田市観光振興協会)




